共感

anunauma2005-11-21

今週は「共感」という言葉について考えることが多かったので「共感」というタイトルで。
人の心はとても奥深いもので、一言で共感といっても、心のどの部分が共鳴しているのかによって、その強さも質も大いに変わってくるのではないかと思います。
「傷のなめあい」という表現がありますが、これは心のとても浅い部分で安易に響きあっているがゆえに、同じ境遇に同情しながらも、あらたな一歩を踏み出すことができない状況のことを言うのではないでしょうか。

私たちは、創作活動の中に喜びを感じます。この喜びは創作という行為それ自体に由来する喜びです。ほんの少し前まで創作活動と自己顕示とを完全に切り離して、純粋に創作の中だけに喜びを見いだせるかどうか確信が持てませんでした。聞き手が存在することを前提とせずに、それでも創造行為に携わりたいという欲求が生まれるかどうか。いまこの問いに対して答えを導き出すきっかけをつかみつつあります。

「聞いてもらわなくてもいいのなら、作品にする必要ないでしょ?」
そう、その通りです。作品を出すかぎり、それは自己顕示とは切っても切り離せないものだと思います。さっき書いたことと矛盾しているようですが、ここで言いたいのは「聞いてもらわなくてもいい」ということではなくて「聞いてもらうことを前提としない」ということです。
聞き手を前提とする創作には、「聞いてもらう」という言葉のとおり、聞き手の趣味、嗜好に自らをあわせたり、歩み寄ったりする必要があります。別に悪いことではなく、その姿勢こそがエンターテインメントを生み出すのでしょう。これは自己分析ですが、私たちは根っからのエンターテインメント好きでありながら、自分たち自身は空っきしエンターテインメント気質をもっていないようです。
好きなミュージシャンを10人あげれば、おそらく10人とも一流のエンタテイナーであり、「聞いてもらう」ことを徹底的に考えた人たちだろうと思います。何しろblack musicが好きなのですから、エンターテインメントを意識しないミュージシャンを見つけることの方が難しいでしょう。
だからこそ少し前までは思っていたのです。自分の作品もエンターテイメントでなくてはならないのではないか。「誰に聞いてもらいたいのか」「どんな人たちに好まれたいのか」これをよく考えないと創作活動は続けられないのではないかと。

いまこの「エンターテインメント」という言葉の呪縛から解放されつつあります。キーワードは「共感」。私たちは何にあるいは誰に共感しているのか。これまでは、私たちの音楽をよいと言ってくれる人や私たちがよいと思っているミュージシャンたちと共感しているものだと思っていました。確かにそこには共感はありますが、この共感は、私たちの心のほんの一部分が共鳴しているにすぎないように思います。誤解のないように言いますと、私たちの音楽をよいと言ってくれる人たちのことを軽視しているわけではありません。
もう少し深いところで、私たちの心が何かと共鳴するのを感じるのです。それは、生み出すときの孤独への共感ではないかと思います。JazzにもSoulにもHip HopにもSambaにもBossa novaにも、愛着を感じるどんな音楽に対しても、その文脈の外にいることを余儀なくされる。根なし草のようにさまよう心を、あるべき場所へとおさめようとするが、どの扉をたたいてみても「あなたが入るべき場所はここではありません」と追い返されてしまう。入るための努力をするには、あまりにも自尊心が強く、内気なのかもしれません。

しかし、このような根なし草の孤独を感じながら作品を生み出す時に、実は創作者として非常に重要な気質を育んでいるのではないかと思うのです。単に孤独と言うならば、創作に携わる人は、程度の差こそあれ必ず孤独を感じるはずですし、この孤独が創作者を育ているとも言えるでしょう。そして、この孤独を聞き手の笑顔で癒せる人は真のエンターテイナーなのかもしれません。私は違います。曲を聴いた時に直感的に感じることがあります。これは、疎外感の中で心の居場所をもとめて作られた曲、さらに言うと、その疎外感があったからこそできた曲だと。あくまで主観の問題ですから、何の証拠もありませんし、全くピントはずれなのかも知れません。ただ、私たちは確かにそのように感じ、そのとき深い共感を覚えるのです。

ちなみに一番最近このように感じたのは、宇多田ヒカルさんの新曲「Be my last」を聴いた時です。CD一枚も持ってません。ダウンタウンの『Hey Hey Hey』に出てたのをたまたま見て、すごく親近感を覚えました。バリバリの売れっ子歌手ですから、本人に対しては失礼な話でかも知れませんが、どう感じるかはこっちの勝手ですからいいですよね。あくまで直感的に、似たようなものを持っているのかもしれないと感じたまでです。
あと音楽ではありませんが、emmyの本棚から拝借して少しずつ読んでいる萩原朔太郎。いま読んでいるのは彼の詩ではなく、随筆を集めたものですが、その内容にも親しみを覚えます。あと小さい時に聴いた山田耕筰の「この道」のメロディー。山田耕筰がどういう人なのかよく知らないのですが、この旋律には単なる親しみやすさ以上のものを感じます。童謡というのは、そもそも大衆が親しみを感じるように、子供にも伝わるように作られているのですから、親しみやすさを感じるのは当たり前なのですが、優れた童謡には、大衆のものでありながら、決して拭いきれない作り手の意志、そしてその孤独感が感じられるものだと思います。

それにしても、アップルのiMac G5欲しい!