meta-catholic philosophy 〜 「関係性」の哲学

「関係性」という言葉にはまっています。これは一種の反動で、これまであまりにも「個」にこだわり過ぎたためなのかもしれません。「この世には永遠不変の真実がある」とか「自分を奥深く見つめていけばそこには他者とは決して混ざりあうことのない自己像がある」とか、何にせよ深く掘り下げればそこには必ず石ころのような固形物があるというような世界観、人生観。これは、中高時代に受けたカトリック教育のたまものなのかもしれません。そういえば、わが母校の石碑には「すべてのものは過ぎさりそして消えてゆく。その過ぎ去り消えてゆくものの奥にある永遠なるもののことを静かに考えよう」と刻まれていました。あんなに辛かった中高の6年間。でも実際にはそこで学んだ精神を、わたしはすごく大事にしてきたのかもしれません。

ところが、最近いくつかの出来事をきっかけに、この「個」という妄想から解放されつつあります。こんな風にいうと、これまでの人生観、世界観、わたしが受けたカトリック教育の恩恵、ひいてはカトリック的な世界観を全否定しているように思われるかもしれませんが、そういうわけではありません。真善美の探求、神が創造した宇宙を解き明かそうという努力が人類を、そして、ごく微細な存在にすぎませんが私自身をわずかなりとも前進させてきたのだと思います。永遠不変の固形物の存在を信じることは、われわれが善く生きるために非常に有効である、つまりそういったものの存在は、道徳的に、また倫理的に、正しいもしくは望ましいものであることは間違いありません。

しかし、いま私はこれとは全く違う風に自己像をとらえる訓練をしています。訓練というと大げさですが、「個」を必要以上に意識するのが癖のようになっていますから、ある程度自分にいい聞かせながら、普段から意識しないと、新しい捉え方を修得できないような気がするのです。で、その自分に言い聞かせている言葉というのが「関係性」という言葉です。

「個」は他者との関係においてはじめて成立するもので、他者と切り離された個は存在しない。そうすると「まず世界を認識する自己があり、そして認識の対象として他者が生まれる」のではなく、「他者が先にあり、それとの関係において自己がうまれる」。さらに、その他者もそれ以外の他者との関係においてのみ存在するものなので、そもそも「個体」は存在しない。そう考えることによって、いままで捕われていた殻に覆われた自己像から解放される。そもそも固形物など存在しない。ある種のエネルギー体ではあるかもしれないが、そのエネルギーも他のエネルギー体との相互の影響によってはじめて意味をなすものである。

こんなことを考えはじめたのは、身近な「死」がきっかけです。生きている我々にとって「死」とは、目に見える肉体を失うことで、それはつまり「別れ」ということになります。でも、実はそもそも目に見える個体など存在しないのならば、「死」とは本来の姿(形のない在り様)に戻るということで、肉体という制約から解放されるということではないでしょうか。そもそも他者との関係においてのみ「個」が存在しうるのならば、死者を想う人のそばには、必ずその死者は存在するのではないかと思うのです。

肉体を失ったシーザーの魂、市川先生の魂のことを想いながら、彼ら想う気持ちはその魂とつながっているんだと信じているのです。