成功のサジ加減 前編

社会生活がある種の舞台にたとえられるならば、そこに舞台監督や演出家がいるかどうかはさておき、その舞台は演出のために大胆なデフォルメがなされていると考えることは可能です。では具体的にどのようなデフォルメが考えられるでしょうか?わたしは常々、「成功」という言葉は、それが本来意味するものと違った風に、しかもそれが本来もつ価値以上の価値を与えれた状態で、実社会において用いられているように感じていました。ですから、社会生活という舞台において、そこにある種のデフォルメがあるとすれば、その最たるものは「成功神話」ではないかと思うのです。

「成功」「失敗」は人を成長させる原動力になりうる一方で、それはあくまで動力であり過程であり一時的なものであり、つまり到達点ではないし目的でもありません。ところが、実社会では成功が目的化されているように思われます。本能的に、「成功」の本質も理解している人であっても「じゃあ成功の先にある本当の目標、到達点は何なのか?」と考える人は稀で、「成功体験の積み重ね」あるいは「不断の成功」などと言って、成功を自己目的化する傾向が強いように思われます。もちろんここで言う「人」とは、社会生活という舞台にたつ登場人物という意味であり、現実の人間はもっと複雑なはずです。つまりこの部分がデフォルメされているということです。成功に向かって邁進する「人」が、もっとも舞台映えするキャラクターであり、「成功とは何か?」と考える余地は、その舞台演出には全く不要であるということです。

倫理的価値基準といえば「真、善、美、聖」ですが、この中に「成功」という基準はありません。つまり「真、善、美、聖」は、追求する対象となりうるが、成功はそうはならないということです。もちろん「真、善、美、聖」を追求する過程で、何らかの成功や達成感をその原動力にするのは大いに有効だと思います。しかし、デフォルメされた舞台は、しばしばその舞台が他と切り離されて、あたかももう一つの現実であるかのようにふるまうことがありえます。virtual realityとはこのことでしょうか。舞台であることを忘れた舞台は暴走します。本来、価値基準とはならないはずの「成功」が、価値基準として肥大化して、先の見えない、先を見せない競争へと人を巻き込んでいくことがあり得るのではないでしょうか。

ただ、この類の話は「成功者」がすべきでしょう。成功は追求の対象とはなりえないことを心の底から思い知るには、やっぱり成功しなければなりません。成功をしらずに、成功のちっぽけさを語るのは、野良犬が吠えているのとおんなじです(これは野良犬蔑視ではなく、野良犬への愛情表現ですが)。
したがって、この話の続きは5年後に。はたして、それを語る資格をもっているのかどうか。もちろん、何をもって成功というのか、それ自体が主観的なものですから、資格もなにも「おまえのサジ加減ひとつやないけ!」と浜ちゃん風にツッコンでおきます。