amar o mar

18才までを神戸で過しました。とりわけ港町神戸を臨む高台にある六甲学院に通った6年間は、少なからず人格形成に作用したように思われます。ちなみに六甲学院は、カトリック系の中高一貫校。僕は信者ではないけど、やはり多感な時期に、間接的であれ、カトリックの教えに触れたことは、現在の価値観、価値判断に影響しているように思います。
高潔であることに関して非常に厳しい学校で、正直なところ、通っていた当時は、ひたすら閉塞感を感じていたように記憶しています。その結果か、必要以上に他人に対して自己抑制的なところがあるようにも思う。余談ですが、高校の卒業アルバムで、自分の写真のそばに一言コメントを添える欄がありました。上記のような閉塞感を言葉にしようと思って「6年間は長かった・・・」とコメントをつけました。ところが、できあがったアルバムを見ると、コメントの上の自分の写真が、歯までのぞかせた笑顔。「これじゃあ、まるで楽しい6年間を満喫したかのようなコメントに見えるじゃないか」と愕然としました。あの卒業アルバムは自分の中ではタブー。
学校生活と同じくらい、現在の自分に大きな影響を及ぼしたのは、神戸の町並みです。とくに港を臨む町並み。鬱屈した気持ちが心に充満した時には、三宮駅から新開地駅まで歩いたものです。その途中にはメリケンパークがあって、のちに隣接する場所にはハーバーランドもできました。人の手が加わり、きれいに整備され商業化された場所でも、例えば平日の昼下がりなどは人気がありません。そういった時には、かえって自分と自然(この場合、天然の自然ではなく、取り巻く環境という意味での自然)とが不思議と溶け合うような感覚に浸れるものです。
今では、海といえば、砂浜でemmyやfeliceと波際までいって砂遊びをしたり、時には海水に浸かったりするのがとても楽しいと思えるようになったのですが、それでもなお、例えば葉山マリーナ内のデッキに座っている時などに、より開放的な気分になれるのは、神戸での経験からきているのかもしれません。